東京高等裁判所 昭和53年(う)2534号 判決 1980年5月22日
被告人 朴耕成
主文
本件控訴を棄却する。
当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人松浦基之、同鷲野忠雄及び同佐々木秀典が連名で提出した控訴趣意書及び被告人の提出した「控訴にさいしての意見」と題する書面に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、検察官親崎定雄の提出した答弁書に記載されているとおりであるから、いずれもこれを引用する。
一、控訴趣意中、原判決には職務執行の適法性に関し事実の誤認及び法令適用の誤りがあるとの主張について
(一)、職務執行の適法性に関する事実誤認について
所論は、本件公務執行妨害における職務執行の適法性を判断する前提事実について、原判決は、後藤巡査に対する暴行被疑事件を契機として百数十名の者が停止を求められ、そのさい判示のような穏かな方法がとられ、また被告人に対する岡安巡査部長の行為も肩に手を触れる程度のものであつたと認定しているが、後藤巡査に対する暴行の存在を供述する原審における同人の証言には不自然で不合理な点が多く、右暴行のあつたこと自体が疑わしいうえに、右集団に対する停止の規制にさいしては、予め停止の呼びかけもせず、女性をねらいうちにして手をかけ、振り廻わすなどの乱暴を加え、また岡安巡査部長も右規制に従事した警察官の一員として女性に手をかけていたのであつて、これらの点において原判決には事実の誤認があり、この事実誤認は、本件職務執行の適法性を判決するうえの重要な前提事実を誤認しているという意味で判決に影響を及ぼすことが明らかであるというのである。
そこで、訴訟記録及び各証拠に基づいて、後藤茂穂巡査に対して暴行が行われた事実の存否とそのさいの状況、暴行の程度等について調べてみるのに、原判決挙示の原審第七回公判調書中の同巡査の証言によると、当時警視庁第四機動隊に所属していた同巡査は、他の警察官十数名とともに、原判示の当日午後四時三〇分過ぎ、在日韓国大使館入口付近において、同大使館に対する抗議行動に押しかけた在日韓国青年同盟に属する百数十名の集団が「大使出てこい。」「入るぞ。」などと怒号しながら大使館構内に侵入しようとしているのに備えて、阻止線を張り、その侵入を防ごうとしていたが、次第に集団の力に押され、集団の中の者に蹴られたり突かれたりしながら後退するうち、右斜め前方の一人おいて向う側にいた男から右手の手拳で自分の顔の眉のあたりを突くようにして二回たて続けに殴打され、白手袋でそのあたりを拭つたら血がべつとりとついたので、その暴行をした男をみると、年齢は二〇歳から二五歳くらいで、身長は一六五センチメートルから一七〇センチメートルくらいあり、顔はやせ型で、紺色のジヤンバーを着ていた、というのであつて、その供述するところは暴行を受けた状況について具体的で詳細にわたつており、その間に所論のいうような特段に不自然で不合理な点を発見することはできない。そして、後藤巡査が右暴行によつて受傷したことは、本件の直後同巡査を診察した医師荻野彰の原審証言によつて裏づけられているところであり、かくして、同巡査が本件集団の中にいた者から暴行を受け、その結果、右側眼瞼上部を二針縫合し、治療に約一〇日間を要する顔面挫創を負つた事実は明白というべきであつて、所論のように右事実の発生したこと自体について疑義を挾む余地は存在しない。
次に、右暴行が行なわれたのちの上記集団に対する規制の状況について調べてみると、関係証拠によれば、後藤巡査は右暴行犯人の人相、着衣その他の特徴を確実に認識したものの、同人が集団の中にまぎれ込んでしまつたので、第八機動隊所属警察官の応援を得て、犯人を探し出し、犯行の状況を明らかにするため、犯人又は目撃者がその中にいると思われる集団が右大使館前の通称仙台坂通りの歩道を二の橋交差点に向かつて立ち去ろうとしているのを一時停止させたうえ、後藤巡査が見分して犯人でないと認められる者に順次立ち去つてもらう方法により、暫時の間右集団に対する規制を実施したことが認められる。しかしながら、右のように警察官らが前記集団に停止を求めるにあたつては、「待つてくれ」などと言いながら、右歩道に接する車道部分に隊列を組んで阻止線を張り、また、集団の先頭を進行する者に対して、その身体に接触する程度のことはあつても、停止の要請に応じない者を強制的に立ち止まらせるような実力の行使にまで及んでいないことは、岡安英男の原審証言その他の関係各証拠によつて認められ、また、停止を求めるにあたつて、その理由の具体的な説明がなされた証跡はうかがわれないが、警察官からあらかじめ停止するようにとの指示があつたことは関係各証拠によつて明らかに認めることができる。所論は、司法巡査誉田勉作成の写真撮影報告書添付の写真No.3並びに原審証人高昌子、同朴美津子及び同安聖鎮の各供述を援用して、機動隊員らは女性をねらいうちにして乱暴を加えたと主張するが、前掲報告書添付の写真を調べてみても、機動隊員が集団のうちの特に女性をねらつて乱暴を働いているような状況は認められず、また、後藤巡査が暴行犯人として確認していたのは男性であることが明らかであつた点からして、警察官が「女性をねらえ」とか「女をつかまえろ」などと言つたということは首肯できないところであつて、この警察官の発言については、原審において右集団の中にいた多数の者が証人として取り調べられているなかで、これを聞いたと供述しているのは右高と安の二名にとどまり、むしろ、そのような言葉は聞いていないと供述する者が二、三にとどまらないことから考えて、右高及び安の両証人は規制当初の混乱と騒音のなかで他の趣旨の発言を右のようにとり違えて聞いたものと推察するのが自然のように思われる。一方、原審において前掲の高証人は、当時本件集団の先頭部分が到達していたスーパーマーケツト「ナニワヤ」前の横断歩道の中ほどで、二人の民族衣装を着た女性が機動隊員から覆いかぶさるように押えられ、助けを求めているような様子を目撃した旨述べ、また安証人は、機動隊員の一人が集団のうちの朱正美と朴美津子の両名の肩のあたりに手をかけているのを見て、その間に割つて入り、右両名とともに規制から脱出したと証言し、更に原審証人鄭貴美は、スーパー「ナニワヤ」の横断歩道のところで一人の機動隊員に腕を掴まれて三メートルくらい引きずられた旨供述するなど、原審証人のうちに機動隊員が女性に対して乱暴を働いたかのような証言をするものもないではないけれども、これらの証言を本件規制に従事した機動隊員の原審証言と対比してみると、当時の混乱した状況のもとにおける不確かな認識によるものかあるいは機動隊員に対する反撥の気持からかその表現には若干の誇張がみられ、事態の観察も十分正確であるとはいいがたい点のあることを否定することができない。このことは、右高及び安の両証人の証言によれば機動隊員から暴力を振るわれたとされる朴美津子が、原審において、機動隊員は止まれ、止まれと言いながら自分の肩を手でかこむようにして止め、逃げられないような状態にしたが、身体に触れて止めていただけであつて、そのために自分が痛い目にあつたようなことはない旨供述している点や、右朴とともに暴力を加えられたとみられている朱正美が、当審において、機動隊員に着ていた民族衣装の長い裾を踏まれるとともに、左手を思い切り引つ張られた旨供述するものの、同女の他の証言部分に徴すると、右の点も機動隊員が故意に同女に乱暴を働いたというわけではなく、規制を脱出しようとする同女がたまたま機動隊員と衝突した結果にすぎないことがわかる点によつても、その一面が裏づけられているものと考えられる。その他、所論が指摘する関係証拠を検討してみても、機動隊員が本件集団を規制するにさいし、その集団の中にいた者に対して暴行を加えた事実を認めることはできず、もとより岡安巡査部長が集団の中の女性に対して暴行を加えていたことを示す証拠は全く存在しないのであつて、かようにして、当時の状況につき、後藤巡査が本件集団の一員によつて暴行を受けたことを疑うに足りる相当な理由があり、一方、機動隊員が本件集団に対し停止を求めるにあたつて、待つてくれなどと言いながら、相手の身体に接触することはあつても、その相手に痛みを感じさせるような有形力を行使したことはなく、また、停止の要請に応じないものに対して強制的に立ち止まらせるような手段に出たこともなかつた旨認定した原判決は正当であつて、この点に所論のような事実の誤認はないから、論旨は理由がない。
(二)、警察官職務執行法に関する法令の解釈適用の誤りについて
所論は、要するに、岡安巡査部長を含む警視庁第八機動隊の隊員が本件集団に停止を求めて規制をした職務執行について、原判決は、警察官職務執行法(以下、「警職法」と略称する。)二条一項が適用される場合として相当である旨判示しているが、後藤巡査に対する暴行の被疑者は男性一名であることが明らかであるのに、女性を含む一三〇名以上の者に対し、職務質問ではないいわゆる面割りを実施した本件の職務執行は、警職法二条一項に違反して許されない違法なものであつて、原判決はこの点において警職法の解釈適用を誤つており、その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。
そこで所論の点を検討するのに、原判決が判示する本件公務執行妨害における職務執行の内容は、原判決の罪となるべき事実の摘示と弁護人の主張に対する判断部分とを総合してみると、原判示の当日韓国青年らが在日韓国大使館員に対して抗議行動を行つたさいに発生した右大使館警備中の後藤巡査に対する暴行事件について、警視庁第八機動隊に属する警察官が右暴行の犯人を検挙してその犯行の状況を明らかにする目的をもつて、その中に犯人がおり、また、犯行の状況を知つている者がいると思われる男女合わせて百数十名に及ぶ右集団を一時停止させたうえ、右後藤巡査が右集団の中にいる者を見分し、犯人でないと判明した者を順次立ち去らせるという方法によつて集団の移動を規制した行為を指称しているものと解される。ところで、右のように、犯罪が発生してから間がなく、被害者は犯人の特徴を明確に記憶しており、犯人が集団の中にまぎれ込んだとみられるため、直ちにこれを発見することはできないが、その集団の中に犯人又は目撃者のいる蓋然性が極めて高く、被害者に確認させれば犯人又は目撃者を特定することもさほど困難ではないと思われる状況のもとでは、右集団が百数十名に達する人数であつても、その規制の方法において強制にわたるものではないかぎり、右集団自体を一時停止させて職務質問を実施するための態勢を作ることは、警職法二条一項の趣旨からして許されないこととはいえない。そして、本件の場合は、歩道上を歩行中の集団に対し、機動隊員が車道部分に隊列を組んで集団の中の者が集団から逸出するのを防ぎ、また、その移動を一時停止させるについては、集団の先頭部分を進行する者に対してその身体に接触する程度のことはあつても、強制的に立ち止まらせるようなことはせず、またこのような規制を行つた時間も、前掲誉田勉作成の報告書の示すとおりせいぜい六、七分ほどの短時間であつた点に徴するならば、結局右の規制は、主として集団全体の動向を対象としたもので、右集団自体の移動、分散等を暫時の間阻止することはあつても、右集団に属する者の個個人に対して強制力を行使したものとはみなされないのであつて、かかる趣旨のもとにおける右の程度の規制は、前述のような当時の状況及び警職法の前示条項が質問の対象者を停止させることを認めている点に徴して、職務質問を行なうための前段階として許容される範囲内の権限行使であると解しても、同法の法意にもとるものではないと考えられる。所論は警職法二条一項により許されるのは職務質問であり、同条項はいわゆる面割りを許容しているものではないというのであるが、本件のように、集団の中の犯人又は目撃者と思われる者を選別するため、次次に集団の中にいる者の容姿を見分し、その結果疑わしい者を発見したときは、その者に対し職務質問を実施する予定のもとに右のような規制を行う場合には、それがいわゆる面割りと称せられるものであつても、職務質問の可能な状態を準備するための措置として許容されるべきものと解されるのであつて、所論のいうように本件の規制がいわゆる面割りに該当するものであるがゆえに職務の執行として違法なものであるということにはならない。以上を要するに、本件の規制は警職法二条一項に照らして適法な職務執行行為とみなすべきものであるから、原判決には所論のような法令の解釈適用を誤つた違法は見出しえず、この点の論旨も理由がない。
二、控訴趣意中、原判決には被告人の暴行の有無及び傷害の程度に関し事実の誤認があり、ひいては公務執行妨害罪の成立を認めた点に法令適用の誤りがあるとの主張について
所論は、機動隊が本件集団に停止を求めて規制を開始したとき、被告人はその規制線の外側にいて規制の状況を見ていたところ、機動隊員が集団の中の女性に手をかけて乱暴を働いていたので、それを止めるべく、その間に割つて入つたのであるが、そのさい警察官に暴行を加えたことはなく、また、警察官に追われて逮捕される間にも無抵抗のままであつたのに、停止を求められた被告人が巡査部長岡安英男に対し顔面及び下顎部を手拳で殴打する暴行を加えてその公務の執行を妨害し、その結果同人に判示の如き傷害を負わせたと認定した原判決は判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認を犯し、ひいては法令の適用を誤つたものであるというのである。
そこで、所論の諸点のうち、本件の規制が開始されたときの被告人の所在場所について原審証人の各供述が必ずしも一致しているとは思われないので、この点から検討してみると、被告人は、本件集団に加わつて韓国大使館前における抗議行動を行つてから帰途についたが、集団の先頭部分を歩いて二の橋交差点の方向に向かい、スーパー「ナニワヤ」前の横断歩道を渡り切つたころ、同店前を最先端とする機動隊の規制が始まつたので、その外側で右規制の状況を見ていたところ、機動隊員の一人が集団の中の女性二名の肩に手をかけたために、同女らが身体を小さくして動けなくなつているのが見えたので、直感的に乱暴されていると感じ、このような乱暴をやめさせるべく、その場から走つて行つて、その機動隊員と女性との間に割つて入つた旨供述している。一方、この点について、規制を実施していた側の岡安巡査部長は、原審において、一人の男が機動隊の列をくぐつて出てくるのを現認した旨供述する一方で、集団の中にその男がいたのは見ていないと証言し、また、当時右岡安の近くでそのときの状況を目撃していた警察官木村秋雄も原審において、規制された集団の中から被告人が出てきたところまでは見ていないと証言しているのであつて、右被告人及び両証人の供述と被告人が規制の外側から機動隊の列の中に入つて行つたとする点で被告人の供述に沿つている多くの目撃証人の証言とを総合してみると、結局被告人は規制を受けていた集団の中から出てきたものではなく、その供述するとおり規制の外側から機動隊の列の中に入つて行つたと認めるのが相当と考えられる。そこで、その後の被告人の行動について調べてみると、被告人は、前記のようにして、スーパー「ナニワヤ」前で機動隊員が女性に手をかけているところに割つて入つたさい、右手にハンドマイクを持つていたので、左手を出しただけで、その手は機動隊員の上半身の胸か肩あたりに当つたにすぎず、そのあと、機動隊員の「逮捕」の叫び声とともに追跡されたので、二の橋交差点方面に逃げたが、スーパー「ナニワヤ」と道路を隔てた向かい側二軒目に所在する中華料理店「新香飯店」の前で機動隊員数名に取り囲まれ、路上に倒されて逮捕されたもので、その間自分の方から機動隊員に暴行を加えた覚えはない、と供述している。これに対して、岡安巡査部長は、原審において、スーパー「ナニワヤ」の前において本件集団の規制に入つたところ、警察官の間から一人の男が二の橋方向に立ち去ろうとするので、停止させて職務質問をしようと考え、同人に対し「ちよつと待つてくれ。」と呼びかけながら、同人の後方からその左肩を右手で押えると、同人が「何をするんだ。」と言つて後方に振り向きざま右手で顎の部分を思い切り殴打してきたので、「公妨で逮捕する」と大声で言つて、他の警察官とともに二の橋交差点方向に向かつて全力疾走するとその男を追跡し、中華料理店「新香飯店」の前付近に至つてようやく同人の身体を取り押え、なおも手足をばたつかせながら抵抗を続ける同人から右店舗入口ドアーの前で再び顔面を強打されたが、結局同所でその男を逮捕したものであり、その逮捕した男が本件の被告人である旨証言するとともに、当審においても、その経過につき大筋において同趣旨の供述を繰り返えしており、また、当時岡安巡査部長から一メートルくらい離れた地点で集団の規制に従事していた警察官木村秋雄も、原審において、岡安がスーパー「ナニワヤ」前で被告人から暴行を受けた状況につき前記岡安証言とほぼ符合する証言をしていて、これら警察官の証言内容が被告人の供述するところと重要な部分において対立していることは訴訟記録及び当審の事実取調の結果の示しているとおりである。しかしながら、被告人も供述するとおり、当時被告人が赤ジヤンバーを着用していたことから、岡安が自分に暴行を加えた相手方を余人と見誤る可能性というものは始んど考えられないうえに、被告人が岡安らに追跡されて逮捕されるまでの状況を写した前掲誉田勉作成の報告書に添付されている写真No.4からNo.6までにより、被告人の暴行行為自体は直接明らかにされていないまでも、その後の一連の事態の推移がほぼ右警察官らの証言と符節を合わせるものであることがわかり、また、岡安が右のさい傷害を負つたことは、本件の直後同人を診察した結果に基づく診断書等によつて動かしがたいところであつて、これらの諸点と岡安が当時他に受傷する機会があつたことをうかがわせる事情の全く認められない点等とを総合して考察するときには、被告人の供述にもかかわらず、岡安ら警察官の証言に真実性があるものと認めざるをえないのであつて、結局、岡安が被告人から暴行を受け原判示傷害を負つた点の原判決の認定には誤りはないものといわなければならない。所論は被告人が逮捕前に機動隊員らに追跡されている状況を示す前掲写真No.4を仔細に観察すれば、当時被告人はハンドマイクを右手に持つていたことが明らかであるから、右写真は、被告人から効き腕である右手で思い切り殴打されたと供述する岡安証言の信用しがたいことを示すとともに、そのさい被告人は左手を差し出したにすぎないと述べる被告人の主張の真実性を裏付けるものであるというのであるが、右の写真は、走つてゆく被告人の左後方から撮影したもので、被告人の身体の前面の状態がどのようであつたかはこの写真だけでは必ずしも判然とせず、また、この点に関する当審における法廷検証の結果によつても、被告人が右写真の示す当時ハンドマイクを左右いずれの手に持つていたものかの点を決するまでの資料を得るにいたらなかつたのであるが、仮りにこの写真がハンドマイクを右手に持つている被告人を示すものであるとしても、前記暴行のさい左手に持つていたハンドマイクを逃走の態勢に移つてから右手に持ちかえることもとつさの行動として十分考えられることであつて、右写真の示すところと前記被告人の右手による暴行とが直ちに矛盾することにはならず、右の写真の存在によつて前記岡安等の証言の信憑性が動揺するということはありえない。また、所論は、原判決の認定にかかる岡安の受傷の程度にも疑問があるというのであるが、同人の傷害を診察治療した医師波多野正三の原審証言によると、右警察官が負つた傷害のうち、口唇部挫創は、受傷から約一週間後の四月二五日に抜糸して一応治癒したものであり、また、頸椎捻挫は、局部のレントゲン検査、患者本人の訴え、臨床症状等から判断して受傷から約四〇日後の五月二六日ころ治癒したものであることが認められるのであつて、この点につき、安静加療に約五週間を要する頸椎捻挫及び口唇部挫創の傷害を負つたものと認定した原判決になんらの誤りも発見することはできない。以上のとおり、原判決挙示の証拠を総合すれば、後藤巡査に傷害を負わせた犯人がまぎれ込んだ本件集団を停止させて職務質問を実施すべく、その規制に従事していた岡安巡査部長に対し、被告人が手拳でその下顎部及び顔面を殴打する暴行を加え、よつて同人の適法な公務の執行を妨害するとともに、右暴行により同人に原判示の傷害を負わせた事実は優にそのすべてを肯認することができるのであつて、原判決には所論のような事実の誤認はなく、また、なんら法令適用の誤りは存しないから、この点の論旨も理由がない。
三、控訴趣意中、原判決には正当防衛又は緊急避難に関し法令の解釈適用の誤りがあるとの主張について
所論は、被告人の本件所為は、機動隊員に手をかけられ、乱暴な規制を受けていた仲間の女性を助けるために、右両者間に割つて入り、機動隊員を制止したにすぎないものであり、機動隊員の右女性に対する急迫不正の侵害に対し同女の権利を防衛し、あるいは同女の危難を避けるためやむをえず行つた行為であつて、正当防衛又は緊急避難に該当するにもかかわらず、これらの成立を否定した原判決は刑法三六条、三七条の解釈適用を誤つたものであるというのである。
しかしながら、機動隊員が本件の規制にさいし、集団の中の女性に暴力を加えていた事実のないこと、したがつて、右女性が法益の侵害を受けたことはなく、法益侵害の危険のある状態に置かれたこともなかつたこと及び被告人の本件暴行行為が激しい攻撃的なものであつたことは、いずれも上来説示のとおりであつて、事実関係においてとうてい正当防衛又は緊急避難を適用すべき場合にあたらないことが明白であるから、弁護人の右主張を排斥した原判決の判断は正当であつて、論旨は採用することができない。
よつて、いずれの論旨もすべて理由がないから、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文を適用して全部これを被告人に負担させることとして、主文のとおり判決をする。
(裁判官 西川潔 杉浦竜二郎 阿蘇成人)